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河北ガイド  

 

基本情報
  河北省は北京と天津市を囲むようになっており、総面積は19万平方キロである。人口数は6744万であり、省の都は石家庄である。
  河北省には古代の遺跡や建築物が304ヶ所、そのうち国の重要文化財保護指定を受けた所が58ヶ所あるため、歴史文物の数は全国一。豪華な文物である金絽玉衣を出土した漢王墓(満城にある)や、中国最も古い石橋である趙州橋のほか、世界遺産リストに登録されている中国名勝地に、名高い承徳避暑山荘、万里の長城の東端関所である山海関、清時代の皇帝のお墓である東陵と西陵などとも、河北省にある。

 

観光情報

 

   承徳市

  承徳市内の町人口は50万ほどしかいないため、観光名所のエリアは絶対大きいというイメージ(承徳市内地図)。北京からの個人小旅行に最適。承徳の小町で名所巡りのほか、繁華街裏の露天市場並びに日曜日の朝市を、のんびりと見学や買い物などお楽しみいただければ、町のムードにすっかりと馴染まれるだろう。
承徳観光に現地宿泊がある場合、承徳賓館四海国際酒店盛華大酒店天宝暇日酒店上客堂大酒店などは繁華街に近いため、お勧めいたします。
※承徳への見学は、北京から専用車と日本語ガイドなどの手配はできます。
承徳観光写真集@ 承徳観光写真集A

承徳の避暑山荘
  避暑山荘は承徳離宮という別称があり、熱河行宮とも呼ばれ、河北省承徳市中心区の北部にある。
 清の康煕帝は北方への巡幸中、承徳というところが地勢的にも優れ、風景も美しく、気候も申し分なく、そして清の皇帝の故郷へ通じる門戸であることに気づいたので、この地域に行宮を築造することを決めた。康煕42年(1703年)から着工し、康煕52年に、36の景観を完成した。その後、雍正帝の時代を経て、乾隆6年(1741年)からまた築造を続け、乾隆57年に完成された避暑山荘は乾隆36景と「外八廟」を増築したものであり、規模が大きく、いまでも豪華な皇室庭園として知られている。山荘は地形に沿って、「宮殿区」「湖沼区」「平野区」と「山岳区」などの四大景観区に分けられる。建築物の全体的な配置は地形を巧みに生かして美しい景観をつくり出している。
 避暑山荘は清朝の皇帝が夏に避暑し、政務をとるところとして、総面積は564万平方メートル、建築面積は約10万平方メートル、建築物は110余棟、えんえんと起伏する塀は長さ10キロもあり、中国に現存する最大な帝王離宮である。
 避暑山荘は素朴、淡雅の山村野趣を格調とし、山水の本来の姿を保ち、長江以南と長城以北の風光を吸収し、大規模の王室庭園をつくった。宮殿は北方民家の四合院の形式で建てられ、黒い煉瓦と瓦を使い、石灰で継ぎ目を塗り、彩色の絵を施していない。
 避暑山荘は宮殿区と苑景区の二大部分に分かれ、宮殿区は皇帝が朝政を処理し、祝典を行い、日常起居をとるところで、面積は10万平方メートル、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建築からなっている。苑景区は湖沼区、平野区、山岳区に分け、湖沼区は長江以南の物産豊かな土地の特色に富み、北東の隅に清らかな泉つまり有名な熱河泉がある。平野区の西部は一面緑の草地であり、蒙古草原の風光を呈し、東部では古木が高くそびえ、大興安嶺の際なく広々とした森林の景色を呈している。山岳区では丘が起伏し、樹木が生い茂っている。
 1994年、承徳の「避暑山荘と外八廟」は世界文化遺産として登録された。

外八廟
 避暑山荘外の東と北の山麓には雄大かつ壮観な寺廟群が分布しており、康煕五十二年(1713年)から乾隆四十五年(1780年)までの間に続々と建立されたものである。溥善寺、普寧寺、須彌寺之廟、普陀宗乗之廟、殊像寺など計八ヶ所があるあめ、「外八廟」と総称される。これらの建物は漢代式の宮殿建築を基調とし、蒙古、チベット、ウイグルなど諸民族の建築芸術の特徴を吸収した上、建造した風格特別な寺廟建築であり、民族の団結と中央集権も象徴している。
 普楽寺の主体建築である旭光閣は、丸い屋根のひさしは二重であり、造形が優しく、北京の祈年殿によく似ている。普寧寺内の大乗之閣の千手千眼観音菩薩は高さ22.23メートル、重さ110トンで、世界最高最大の木製彫像である。
 普陀宗乗之廟はラサのポタラ宮の形と構造をまねて建立されたもので、小ポタラ宮とも呼ばれている。
 1994年、承徳の「避暑山荘と外八廟」は世界文化遺産として登録された。

 

[河北清東陵] 
 清王朝が山海関以南に入ってから築造された初の皇帝皇后陵である。北京市中心より東へ150キロ離れた河北省遵化市西の馬蘭峪に位置し、敷地面積は250平方キロ、後竜と前圏の二つの部分に分かれる。後竜は陵の後にある長城から北へ少祖山と霧霊山を経て、承徳の近くまで延びている。西の密雲から東の遵化まで、山々が起伏し、風景が大変美しい。前圏は陵の所在地で、敷地面積は70平方キロ、南に大紅門、東西に長さ20キロ余りの「風水壁」がある。清の東陵は順治18年(1661年)に築造をはじめ、皇帝、皇后、妃、王女の陵墓が合わせて14カ所もある。そのうち清が山海関以南に入ってからの最初の皇帝順治帝(1644−1662在位)の孝陵、2代目の康煕帝(1662−1723在位)の景陵、4代目の乾隆帝(1736−1796在位)の裕陵、7代目の咸豊帝(1851−1862在位)の定陵、8代目の同治帝(1862−1875在位)の恵陵もあれば、さらにまた孝荘、孝恵、孝貞(慈安)、孝欽(慈禧)らの皇后の陵墓が4カ所、景妃、景双妃、裕妃、定妃、恵妃らの妃の陵墓が5カ所ある。順治帝を埋葬した1663年から、同治帝の最後の妃を埋葬した1935年までの272年間に、皇帝5人、皇后15人、妃136人、王子1人と合わせて157人がここに埋葬された。 中国現存の規模最大な、しかもほぼ完全に保存されてきた帝王皇室陵墓群である。一番南の石牌坊から、昌瑞山主峰の麓に建てられた清東陵の中心である孝陵まで、全長5キロの神路があり、道中、大紅門、更衣(着替え)殿、大牌楼、石像、龍鳳門、一孔橋、七孔橋、五孔橋、下馬碑、小牌楼、東西朝房、隆恩門、東西配殿、隆恩殿、二柱門、石五供、明楼などが次第に配置されてある。

※ 清王朝の帝王陵墓は5ヶ所あり、そのうちの3ヶ所は遼寧省にあり、北京を都にして以来、河北省の遵化市と易県に東陵と西陵を造った。

西太后:1835年生まれ、徽号は慈喜。咸豊元年(1851年)、秀女に選ばれ、翌年の5月9日に故宮入り。18歳に蘭貴人の名が賜れ、1856年3月23日、同治帝を生んだ。1862年、咸豊帝が亡くなった後、27歳の慈喜は同治帝に聖母皇太后と敬称されるようになった。1908年10月22日、病気で74歳の人生を終えた。1909年10月4日(農暦)、清東陵の普陀峪定東陵に葬られた。

普陀峪定東陵:清代咸豊帝(1851−1862在位)の皇后である西太后慈喜のお墓。普陀峪は陵墓の北にある山を指す。咸豊帝の陵墓(定陵)の東に設置したため、普陀峪定東陵と名付けられた。西太后と東太后のお墓(普祥峪という山の南麓に位置する)は東西に並べ、2ヶ所とも1873年8月20日に着工し、1879年6月20日に完成したものである。当時、両陵墓を建設するには、普祥峪定東陵は白銀2665743.823両(1両は約50グラム)、普陀峪定東陵は白銀2275818.046両を費やした。
光緒二十一年(1895)、政権を掌握している西太后は自分のお墓を造り直せとの命令を下った。改修工事は光緒三十四年(1908)まで、計13年間をかかり、そのお墓を明・清時代に最も豪華な陵墓にした。他の陵墓より、特に異なるのは@隆恩殿及び東西配殿の木材に稀少な珍品である黄花梨木を使い;A梁と枡形(ますがた)に描いた図案にすべて金箔を貼り付け、殿内の壁にも赤と黄色の金粉を付けてあり;B64本の柱は這い上がっている金メッキの銅龍に囲み(戦乱中に盗まれたため、現存の実物はない);C宮殿前の階段真ん中に、鳳凰と龍が空に舞う姿を浮き彫りで表現するレリーフがあるなど。
1928年7月、当陵墓は軍閥による盗難を蒙り、地下宮殿に埋葬された数多くの珍宝は損壊・流失された。

裕陵:乾隆皇帝のお墓で、その棺桶を置く地下宮殿の豪華さに類のものはない。前後4つ門があり、最初の門から奥までの壁に仏教関係の彫刻を施され、そのうち、八大菩薩、四天王、五方仏、五欲供、二十四仏、獅駄(背負う)宝瓶、八宝、法輪、宝珠、仏塔、盆花、執壺などのほか、チベット語とインド語で書いた仏教経典など計30111文字も刻まれてある。「石彫刻芸術の宝庫」及び「荘厳な地下仏堂」との美称を受け、仏学と石彫刻芸術、また清時代の皇帝陵墓などの研究に珍しい実物である。

孝陵の石像群:清時代の皇帝陵のうち、最大規模である。全長870mで、神路の道両側に文臣、武将3対ずつ、馬、麒麟、象、駱駝、カイチ(神話中の猛獣)、獅子など2対ずつ、あわせて18対を設置されてある。それぞれの石像は1枚石で彫刻され、高さは3メートルもある。清王朝の皇家陵墓の威厳と神聖をよく表してきた。

石牌坊:孝陵へ向かう際、最初に見える建築で、清東陵域内に入るスタート地点でもある。全体とも漢白玉という石に彫刻され、幅31.35m、高さ12.48m。中国現存の 石牌坊(石鳥居)のうち、最も幅広いものである。

 2000年、清東陵は世界文化遺産として登録された。
※清東陵への見学は、北京から専用車と日本語ガイドなどの手配はできます。

[河北清西陵]

 北京から南西へ約130km、易県の西約14kmの永寧山南麓に位置する清朝の皇帝陵墓。山々に囲まれ、山が起伏し、気迫にみちている。その敷地面積は清の東陵ほど大きくはなく、埋葬されている皇帝の数も少ない。雍正8年(1730年)に築造をはじめ、清が山海関以南に入ってからの3代目の皇帝である雍正帝を埋葬した泰陵、5代目の嘉慶帝を埋葬した昌陵、6代目の道光帝を埋葬した慕陵、9代目の光緒帝を埋葬した崇陵、孝聖憲皇后(乾隆帝の母親)の泰東陵、孝和睿皇后(嘉慶帝の皇后)の昌西陵、孝静成皇后(道光帝の妾)の慕東陵、ほかに妃の陵が3つ、親王と王女の陵が4つ、合わせて14カ所ある。4人の皇帝、9人の皇后、57人の妃および親王、王子と王女と合わせて76人がここに埋葬されている。そのほかに10代目で、中国のラストエンペラーといわれる宣統帝(日本では溥儀として知られている)のために陵墓を築造しようとした。清王朝が滅びたため、未完成のままで終わった。
雍正帝の泰陵を中心に点在している。清東陵とは、北京をはさんで対角線上に位置する。清の皇帝一族の陵墓は、清東陵と定められていたが、雍正帝の考えで、清西陵を新たに陵墓とすることが決められた。
2000年に、清西陵は世界文化遺産として登録された。
※清西陵への見学は、北京から専用車と日本語ガイドなどの手配はできます。

鶏鳴駅

  

鶏鳴駅古城西門

 

 北京から西北へ150キロの鶏鳴山(河北省)東南部に、明 ・ 清時代の宿場町として 500年前から、100年前までに重要な中継場と関所の役割を果たした 「 鶏鳴駅 」 があり 、 その 古い建築や町風景などから昔の盛況が伺えます。 周囲 1300メートルで、高さ12メートルの黄土と煉瓦で築かれた正方形の城に囲まれている鶏鳴駅は、東西2つの城門があり、城内に居民1000人あまり生活しています。 ここは中国現存されて規模最大な古代宿場町です。  1219年、ジンギスカン が 征西した際、西域への途中に中継場を多く設置し、 「 鶏鳴駅 」 はそのうちの一つでした。
 明代の永楽帝十八年 (1420年)から、 「 鶏鳴駅 」 は北京西北部の最大な 宿場町に拡大され、役所、倉庫、寺院、舞台など完備されました。 1570年に煉瓦で城門と城壁を改築できました。 1900年、八カ国連合軍が北京を侵入した際、西太后が西安へ逃げる途中、鶏鳴駅で1泊したそうです。
 1996年8月、中国郵電部(郵政省)が中国郵政創立100周年を記念するために、 「 古代 宿場町 」 記念切手を 2枚発行したが、そのうちの1枚は 「 鶏鳴駅 」 であ ります。 現在、 北京の徳勝門から 車で 3時間ほど走行 すれば、 鶏鳴駅 の町に辿り着けます。
※鶏鳴山への見学は、北京から専用車と日本語ガイドなどの手配はできます。

満城漢墓

 1968年5月、中国人民解放軍が保定市西20キロ離れた満城県の陵山にて高射砲陣地を構築していた最中に、漢代中山靖王である劉勝と夫人竇綰(とうわん)の墓を発見した。その頃の中国はソ連と緊張関係にあり、毛沢東が国防のために地下壕や陣地づくりを盛んに呼びかけていた頃である。この漢墓は山の頂上付近を深くくりぬいて作られており、2000年来はじめて陽の光が入った。中では1万点あまりの副葬品が発見されており、そううち「金縷玉衣(きんるぎょくい)」、「長信宮燈」、「銅朱雀燈」、「博山錯金炉」など約4000点は貴重文物である。また、中山靖王劉勝の墓ということが、墓誌からわかった。  (満城漢墓写真集
※満城漢墓への見学は、北京から専用車と日本語ガイドなどの手配はできます。

●三国時代の劉備が何か事を起こすにも、田舎産まれの貧乏人では誰にも相手にされない。そこで、最初のころの決まり文句が「我は前漢景帝の子、中山靖王劉勝の末裔である!」であった。それで漢朝復興を大義に掲げて、仲間を集め旗揚げすることが出来た。中山靖王劉勝は、景帝の8番目の子であり、武帝の兄さんである。中山郡(現在の満城県)の王に封ぜられ、初代の中山国王として一生を贅沢三昧で暮らした。劉勝には120人の子がいたが、直系は前漢末の王莽の乱のときに絶えている。劉備が本当に末裔なのかどうかは、専門家によると家系も世代数もわからないのでは判断しようがない、とのことだ。しかし、子供が120人いたから、劉備のころには子孫と言われる人が何万人もいたし、同じ劉性だし、それをうまく劉備は利用したのかもしれない。

 

河北省内の観光地入場料一覧
金山嶺長城 65元 金山嶺長城ロープウェー 60元(往復)、40元(片道)
※5月〜10月運営
満城漢墓 30元 避暑山荘 120元(4月〜10月)
90元(11月〜3月)
普陀宗乗之廟 80元(4月〜10月)
60元(11月〜3月)
普寧寺 80元(4月〜10月)
60元(11月〜3月)
清東陵 120元 清西陵 80元

 

趙州橋
「河北四宝の一つ」と称賛される趙州橋は古名―安済橋で、また大石橋との別名もあり、石家荘から東南へ約40キロに位置する。隋朝の605年~616年に李春氏より設計また築造されたこのアーチ形石橋は河をまたがり、今まで約1400年の歴史がある。趙州橋は長さ64.4m、幅9m、スパン37.02m。大きいなアーチ状の石条の上に、また4つのアーチ状のトンネルを設けているため、水の通しもよくなり、橋全体の重さも軽くできる。趙州橋は中国だけではなく、世界にも現存最古、しかも保存状況がもっともよい石拱橋(アーチ形ストーンブリージ)である。
 
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